KOJI YOSHIOKA
11.142016
視覚を初めとした五感の記憶と写真
① 光と記憶がスパークする時リアリティが生まれる
無限に広がる大きな宇宙の中に今、生かされて生きている。
その外的宇宙とは別に、私の脳の中にある記憶とイメージの内的宇宙が在る。宇宙物理学者のアインシュタインはかつて、「宇宙は私を空間で包むが、私は宇宙を意識で包む」と語ったことがある。
写真を撮る事は何なのか?外的世界にレンズを向けながらも、内的世界の記憶に沈むイメージや意識が外界とスパークする時に、シャッターを切っているように思えてならない。
私は農家に生まれた。土間があった。梅雨の時期には土間に生えるカビの臭いが緑色の土と一緒に記憶の中に残っている。
養蚕もやっていた。温かい澱んだ空気と蚕が桑の葉を食べる騒がしい音や肌を這う蚕の感触が記憶にある。
人間社会よりも野山で植物や昆虫たちと遊んだり、観察したりするほうが好きな少年であり、祖父母が話す伝説や民話の話を聞くのが楽しくて、山奥に民話の話に刺激を受けて探検に出掛けたりしていた。
そんな時に出会った森の中の植物やキノコが不思議な存在感で迫ってくる時がある。
植物やキノコ自体が存在感を漂わせている事もあるが、その場の空気感や光の状態が存在感に影響を与えている場合が多い。
少年期の記憶の海が写真という表現と大きく関わっている事は間違いないように思える。
匂いから視界的なイメージが広がることもあり、視覚から記憶のイメージを思い起こすこともある。
それらの記憶は、その人が生きてきた事に直結する。何を見てどんな風に生きてきたかによって、それぞれの記憶の海が出来上がる。
個性とは記憶の海の違いではないだろうか。視線の先にあるリアリティは見た人の記憶の海から湧き上がるイメージと重なる時に、より一層濃密なものとなるように思える。
今はネイチャーブームである。海や山や川と親しみ、多いに大自然に癒されればいい。
気持ちを解放するだけでも元気が出る。
しかし、何かを表現したいという欲望を持っている人ならば、解放するだけでなく、自然のあり様を学び、 吸収して欲しいと願う。
記憶の海は常に新しく吸収され増幅しているのだから。
① 0歳時の記念写真。家族と親戚と一緒に写真館で。
② 山中の森に繋がる木道。
③ 7歳の時とうもろこし畑で姉たちとのスナップ。
④ 記憶の海に沈む光景